ミント日和 【狼陛下の花嫁二次小説】
白泉社、可歌まと先生のコミックの二次創作小説を書いてます。 月刊LaLaにて連載中の「狼陛下の花嫁」が中心となっています。
2015.10.17 (Sat)
忘却のかなた 中編
長らくお待たせいたしました。
今回は陛下目線です。
前編の続きとなりますので、まだの方は前編からどうぞ。
ではどうぞ。
泣いていた。
涙を見せず、肩を震わせて。
苦しいと言った。
笑顔で言っていた。
その横顔が、あまりにもまぶしく。
向けられた気持ちが、どこまでも澄んでいて。
心から笑う顔が見てみたい…。
そう思わずには、居られなかった。
忘却のかなた 中編
「あぁ…お妃さまですよ」
「良い天気なのでお散歩ですね」
長い廊下に差し掛かったところ、使者たちの言葉で、私は歩みを止めた。
ちょうど目前に王宮が誇る美しい庭が広がり、足を止めて鑑賞するポイントであった。ここで、一気に話が盛り上がる手はずであったが…。
政治の話を順調に進めていたかと思えば突然挫かれた話題に、私は顔をしかめた。
対する彼らはと言うと、私には絶対見せない朗らかな表情で、視線の先でころころと笑う私の妃を眺めていた。
「……」
また、こいつも…か。
国王陛下の目前で、他者に気を取られるなど使者にあるまじき行為だ。
それをさせてしまうほど惹かれるものが彼女にあるのかどうか…私にはよく分からない。
私は見慣れた光景にさして感想を述べず、決まり文句になっていた妃への褒め言葉で、幕を締めた。
「酷い表情を」
午後の政務を告げる鐘と共に、李順が口を開く。
酷い表情なのは分かっていたので、それがどうしたとばかりに一瞥を投げ、私はため息をついた。
政務室はさきほど人払いを済ませたばかりで、広い室内に人はまばらだ。隅の会議机で作業中の官吏たちに我々の会話は聞こえるはずもなく、私は遠慮なく声を荒げた。
「この顔は生まれつきだ」
私の投げかけに李順は負けじと続ける。
「……そのような顔では、使者の方々のお相手は難しいかと…」
「……そんなことは知ってる」
十二分に知っている。
だが、私の顔をしかめる出来事ばかりに、いい加減うんざりしていた。
「実に回りくどい」
「……」
苛立ちを隠せず荒々しく書類をめくる間、少し歳を取ったように見える優秀な側近の表情が変わることはなかった。
「実に回りくどいぞ」
私はもう一度声を上げた。
これが国政か、党首の仕事か。
少し前の私であればこう続けていたが、さすがに学習した。
続けたところで本質は変わらないことを、身を以て悟ったのだ。
「奴等はどうして、政務を進めない?」
イライラと尋ねた後、李順の答えを待たずに、自ら”駆け引き”だろう…と吐き捨てた。
「あーー回りくどい」
進まない交渉に、進まない取引。
肝心な場面では、話を変える手口。
政治の世界が此れ程手強いとは、記憶を無くす前の私は知っていたのだろうか。
身体の苦痛と共に目覚めると、知らない人間たちに囲まれていた。
さっきまでそばにいたはずの見慣れた人の姿はなく、見知った景色は跡形もなかった。
奇想天外な状況に言葉を失いつつも、とりあえず冷静に自身の怪我を確認した。
巻かれた白い包帯と痛む頭。
たいした傷ではないことに安堵しながら、いつ終わるとも知れぬ幻想のような世界を再度見渡した。
私を国王陛下と呼ぶ面々は、皆一様に同じ表情を浮かべて、李順以外は見分けがつきそうになかった。
これは夢かと意識を彷徨わせ、それでも一向に冷めることはなく…。
軋んだ身体をようやく起こすと、荘厳な王宮に似合わない小さな少女が、目の前で豪快な泣き顔をさらしていた。
「……っふ」
口元に手を当てて、私は笑う。
あの場面を思い出すたび、おかしくなる。
彼女は、別の意味で一際目立っていた。
あの顔もあの仕草も、今まで私が出逢った誰ひとりさえ、見せることはなかった。
だから思い出しては不可抗力で笑ってしまう。
極力笑い声を出さないように気をつけていたが、めざとい側近に見つかった。
「何か良い手立てが浮かびましたか?」
「いや…妃の泣き顔が浮かんだ」
「お妃様?彼女のこと、何か思い出しましたか?」
「……何も」
答えて嫌になる。
彼女に関しては、見事に何も思い出せない。
私の妃は、ごくごく普通の少女だ。
とりたてて美姫でもなく、たぐいまれな教養を身につけているわけでもなく。妃の割には優美さや奥ゆかしさを感じず、何が私を引きつけたのか皆目見当がつかない。
強いて言えば、今までに逢ったことのないタイプか。
唯一の妃というので、高家からの輿入れかと思いきや所在不明らしい。謎は増すばかりであるが、尋ねたところで李順が答えるわけはなかった。
『随分と私が彼女に執心していたため細かいことまで調べていない。どこからか私が連れて来た』
とのこと。
俄かには信じ難く、嘘っぽさを匂わせていたが、問題はそこではない。
聞けば、実際に寵愛はなはだしかったらしい。
昼も夜も片時も手放さなかったとか。後宮へも足繁く通っていたと聞いた。
狼陛下が唯一、笑顔を向ける相手。
それが狼陛下の花嫁。
私はため息と共に頭を抱えた。
近しい存在で彼女だけ思い出せない。記憶を無くす前の私が、これほど深く愛し慈しんでいたというのに。
不思議なことだ。彼女を前にし気は焦るが、記憶は伴わない。深く巡れば巡るほど、ちらちらと顔ばかりが目に浮かぶ。
悲しいと泣き、楽しいと笑い、嬉しいと喜ぶ。
ころころとめまぐるしく変わる表情を、いつまでも見ていたいと思う。
だが、時折見せる憂い顔に、心臓の奥がキュッと痛くなる。まるで何かの罪悪感のように…いつまでも。
「あーー」
私はついに書類を投げ出し、傍に立てかけてあった長剣を手に取り立ち上がる。
「ちょっと駆けてくる」
頭の整理をするには外が良い。そう考えての行動であったが……。
「…っっ」
おそらく子供でも感じるのではないかという分かりやすい殺気に、私は動きを止めた。
「そんな、遠慮なく殺気を向けるな」
苦笑いで言う。
「遠慮なく向けないとダメだと、ようやく思い出せましたので」
やれやれ…、どういう意味か。たかがサボりではないか。
確認した李順の顔はまさに鬼そのものであった。
身内で私に殺気を向ける者は、後にも先にも奴だけだ。その威力は確実に昔よりパワーアップしている。
「……」
ここでさすがに無視するのははばかれて、私は再度椅子に腰掛けた。
「休憩したいのだか?」
「休憩ならば十分になさっておいでですよ?」
私の言葉に被せるように李順は答えた。
「だから記憶を無くされたのでしょう?」
分かりやすい嫌味に、ため息を漏らす。
休憩と言い残し馬を駆けた結果、落馬し記憶を無くしたらしい。
その頃の状況を覚えてはいないが、この厳しい監視下、よく抜け出せたものだ。
そう言うと、陛下の得意技でしたよ…と淡々と答えられた。
どうやら、サボり癖は治っていないらしい。
「少し前まで辺境軍を率いて戦の連日であったんだぞ。急に机仕事と言われても…」
「言われても…何ですか?国王陛下」
「……」
「おっしゃってください、国王陛下」
「………いや、なんでも」
さっきまで、私のことをそんな風に呼んでいなかっただろうに。
その視線だけで人ひとりぐらいなら射殺せるんじゃないか…。何人かは被害に遭っていそうだ。
記憶が無いとはいえ国王である私に対し遠慮しないところは、昔から変わらない。
「まったく…お前は変わらないな」
私は外に出るのをすっかり諦め、投げ出してくしゃくしゃになった書類を整え、元通り上から目を通し始めた。
「陛下は随分と変わられましたね…怪我なされてから初めてお逢いしたとき、懐かしさに震えましたよ」
李順は一切表情を変えず、抑揚のない声音で答えた。
「…それは…どういう意味なんだ」
相変わらず掴めないなぁ。
辺境の地では、血なまぐさい戦場には一切顔を出さない部下であったので、こうしてずっと長く対面するのは久しぶりか。
「李順…お前はいつから私の側近になった?」
「正式には御即位と同時ですね」
「ふうん」
辺境時代から優秀な男で、私を王の息子として敬っていた数少ない人間。共に苦労を重ねた存在として王都に連れて来たのも納得だ。
だが、あの露某と碧水を置いて来たことは衝撃だ。戦に明け暮れていた辺境の地で、私が最も信用を寄せていたというのに…。
中央では武官より文官が重用される傾向であるとは知っていたが、この私が素直に定石を置いたことが未だに信じられない。
兄の失位と私の即位、はたまた反乱軍の鎮圧か。歯車が複雑にかみ合い、今の状況がある。
目覚めたばかりの頃は混乱で判断できなかったが、最近になりようやく分かってきた。
「昔からそんな神経質な感じだったか?」
もともと角がある男だったが、より鋭さが濃くなったと感じた。側近とはそれほど大変なものなの…か。
「昔からです。あなたの側近になり余計増しました。ありがとうございます」
「……ふ、そうか」
裏表ない言い草に、多少安心した。それなりに気の置けない関係を築いているらしい。
「そうだ。浩大はどうした?近くに居るのだろう?」
私はずっと気になっていたことを思い出し尋ねる。
「お分かりですか?」
「ちょくちょく気配を感じる。だが顔を出さない。奴は一体誰に付いてる?」
「陛下にお仕えしておりますが…ったく、どうしたことでしょう?もしや、あなた側の気配の変化を感じ、近付いて来ないのかもしれませんね」
「なるほど、隠密らしくなったなぁ」
私は感嘆の息を漏らし、今の実力が知りたい…と続けた。
ちょっと手合わせを…と本当は続けたかったが、李順の機嫌が悪くなりそうだったので止めた。
私が怪我で休んでいる間、溜まりに溜まった書類が目前に積み上がっていた。
側近を始め私の周囲を囲む人間は優秀で、大半は片付けてくれてはいたが、最終的な決裁者である私が目を通さないといけない案件が残り続けていた。
窮屈だな。
人も場所も、王という存在も。
いつからか…国王になるのは必然と思っていた。
兄の失政と傍若無人さが顕著さを増して来た頃からは、余計国政への携わりが色濃くイメージ出来た。反乱軍を力で制することにも疑問を抱かなかった。武勇を残せば、きっと国王に推し立たられることが安易に想像出来たのに、それが正しいとも間違いとも得られず、ただ必然と、自分の役割をこなす日々であった。
空虚な日々が実体を持ったところで、結局空虚さは変わらないのか…。
今のこの状況が、ある意味答えなのかもしれない。
「浮かない表情ですね、何をお考えでしょうか?」
「……何も。ただ…やはり国王になっても何も変わらないな、と思っただけだ」
「……」
「……何も変わらない。空っぽだ」
この広いばかりで何も持たない王宮。
ここには何もない。
「それは違います」
李順の即答に驚き視線を向けた。
「何が違う?」
「あなたは正しく国を導かれていますよ」
「正しさと実態は比例しない。空虚さは否めないよ」
私は自らの意見を曲げるともせず、書巻の文字に目線を移した。
「あなたは空っぽの国王ではないし、私は空っぽの国王の側近ではありません」
まだ続けるか。
珍しくしつこい彼に興味が出て、付き合ってみることにした。
「では私は何か?」
飾り物の王呼ばわりであろう。
どこに居ても何も変わらないはずだ。
「あなたは絶対の王で、私たちの希望です」
「そんな風に言うのはお前ぐらいだよ」
私たちという言葉に引っかかり、私は口に出した。
「そんなことはありません。それに、あなたのお妃様も空っぽの国王のお妃様ではありませんよ」
「………なぜ妃が?」
急に妃を話題に出し、お妃様という言葉だけ強調したように聞こえて、私は顔を上げた。
「あなたのお妃様をよく見れば分かるという意味です」
「……」
分からん。
だが悔しいので、これ以上は聞かずにいた。
私の選んだ妃をかってくれているにもかかわらず、まるで何も知らぬ私への当てつけのように思えた。
私の妃のことを私より知っている他人が居ることが、なんとなく気持ち悪いのはなぜだろうか。
自分に有益な人間以外、興味のなかったはずなのに。
私の肩書きだけを見て、そばに侍っている者ばかりだと知っているから。だから期待はすまい…と開き直った結果、人間関係を損得で考えるようになってしまった。
それが誤りとも正しいとも思わず、普通のこととして。
そんな私が、一体何を考えているのか。
まさか嫉妬ではあるまいし、なぜこれほど気分が悪いのか…。
今の自分の気持ちが自分に分からない。
早く記憶を取り戻せば、この連鎖から絶たれるのだろうか……。
「使者の件だが…」
「はい」
「妃に相手させようか。使者たちは何やら妃に心開いているようだし」
昼間の一件を思い出し口にする。最初の酒宴の席を任せたこともあり、妃への信用はあるようだ。
それに、彼女の妃ぶりを見てみたい気がする。
接する時間が多くなれば、自然と分かるようになるかもしれない。
「あなたの口から出るのは意外ですが、良案だと思います」
「…意外?」
「いいえ、ではそのように進めます」
李順は何も答えず、次の奏上を読み上げた。
次から次へと…息付く暇もない。
改めて国王の不自由さを感じながら、やがて捌けていく書類の山を描きながら、そっと息を吐いた。
王宮には、幼い頃のある時期だけ暮らしていたことがある。
その頃の王宮は、きらびやかな黄金作りの家具が並び、色とりどりの衣装を纏った姫たちが楽しそうに談笑し、庭園にはいつも鮮やかな花々が咲き誇っていた。
その中で私は薄汚れた着物を纏い、楽しげとはほど遠い不幸をしょいこんだ風貌で、誰にも声をかけられず、うろうろしていたように記憶している。
私を産んだ母は幸薄い女で、国王の寵愛を受け世継ぎをもうけたは良いが、その身分の低さに後宮でろくな扱いを受けてこなかったようだ。その子供である私も同様で、女たちの欲による被害をいつも避けて過ごしていかなければならなかった。
辺境の地に移り住んだ後は、やっとこの生活から解放されたと安堵したが、気候の悪く住み辛い場所からか、母は元々弱かった身体をさらに弱くしていった。対する私は幼子に似合わぬ達観ぶりで、持ち前のたくましさを十二分に発揮し、王弟としての権威を確立していったように思う。
国政にも国王の身分にも興味がなかったが、現状への嫌悪感はあった。だから兄王が失脚した後、素直に血筋を受け入れ即位したのだと思う。
すべて想像だ。
その頃の私の気持ちなど、記憶をなくした今、知る由もない。
私は窓から月明かりを覗いた。
空の景色だけは、どこに居ても変わらない。
辺境の地で見上げた星空も、今宵と同じように美しかった。
最近の過労生活のおかげで、星を見上げる間もなく眠りに落ちていたので、こうして眺めるのも久しぶりだ。
しばらく窓枠に腰掛け眺めていたが、誰かの気配で身を起こした。
「……」
カタン…扉の奥から侍女が顔を出す。
「お休み中のところ、申し訳ありません」
礼をとる姿にため息を漏らす。
「今日の執務は終わりだ」
私はうんざり答えて、侍女に背中を向けた。
どうせ宰相あたりが、書巻を抱えてやって来ているのだろう。
いつも深刻そうにしているため、事の優先度や重要度が掴めず困ってしまう。すべてが緊急案件かと思い込んでしまい、何度となく酷い目に遭っている。
「明日にせよ…」
手で払いのけて終わりにしようとした私であったが、次の言葉ではたと止まった。
「……え…?」
「はい、お妃様がお越しにございます」
「……妃が、きているのか?」
「はい」
「……」
「やはりお引き取り願いましょうか…」
何も答えない私を見かねて、侍女が回れ右をしたのに気づき、慌てて引き止めた。
「ま、待て」
「……」
妃が夫の元に来て何が悪い。
なんの不思議もない。
「通せ」
不審に見つめる侍女の視線を避け、私は短く答えた。
「夜分遅くに申し訳ありません」
「構わない」
私は多少の気まずさを感じながらも、彼女を招き入れた。先日は、不覚にも彼女を泣かせ、事もあろうによく分からない感情にかられ、抱き寄せてしまった。
夫だから別に不思議はない。不思議はないが私には夫である記憶がない。なので多少なりとも気まずさがある。
彼女も同様のようだ。ギクシャクと入室する様子が、あまりに分かりやすくて思わず笑みをこぼした。
彼女は寝る前の楽な衣に着替えて、髪も下ろしていた。
よく見ると可憐だな…などと考えたあとで、慌てて浮わついた考えを追い出した。
まったく、どうしたことか。
彼女を前にして調子が狂うのは何故だろうか。
私は頭を抱えながらも、とりあえずは彼女に席を勧めた。
「このような夜更けにどうした?」
「お休みのところすみません、あの、こちらを先に…」
彼女は袂から液体の入った瓶を取り出すと、おもむろに差し出した。
「?」
「老師に調合していただきました。記憶に効くとか…」
「ふうん」
とりあえず受け取る。
父王の時代より以前から長く後宮に勤める管理人らしいが、滲み出る胡散臭さのせいでいまいち信用出来ない。
先日も、後宮の在り方とやらを大仰に力説されたせいで、印象が芳しくない。
私の後宮嫌いを知っていてなお、進言をやめないあたりも気に入らない。
「老師と言えば…先日もなにかと妃について口うるさく言っていたな…」
私は世間話でもするみたいに、ため息とともに話し出す。彼女は随分とあの小さな老人に頼っているらしいが、そんなに信用するほどでもなさそうだ。注意する意味合いも込めて、私は話題を口に出した。
「妃…とは、私のことでしょうか?」
「いや、妃全般のことだ。正妃を迎えろとか…もっと増やせとか。後宮をないがしろにするのは良くないとうるさく言われた」
今居る妃をもっと大事に扱え…とも言われたが、その件は伏せた。
「……」
たったひとりの妃のことも思い出せずに何が正妃か。まったくもって理解不能だ。
「君が正妃ではない理由は知らないが…」
そこまで話して、はたと気付く。
「……?」
なんだその顔は。
目に見えて落ち込み項垂れる姿の彼女を、私は怪訝に見やる。
「夕鈴?」
「…え…?は、はい」
彼女は私の視線を一瞬受け止めたかと思えば、すぐにバツの悪そうに反らした。
一体何か。気になる態度に思わず無言になる。
「あっ…と、老師は陛下の心配をなさっているのですから…そんな邪険にしないでください」
苦笑いで答える様子に、小さな苛立ちを感じる。
何だ?
注意深く観察してみたがさっぱり分からないので、尋ねてみた。
「どうしてそんな表情をするんだ。私が何か気に触ることを言ったか?」
いつぞやのように彼女の機嫌を損ねたのではないかと不安になる。
「え、!?いいえ、とんでもない」
彼女は驚き否定した。
「では何故?なぜそんな憂い顔なんだ?」
先日の、苦しいような悲しいような表情と重なり、胸の奥がずんと重くなる。苦しいくせに無理に笑う彼女の顔が、未だに記憶から離れない。
そうさせているのは私だと思うと、余計もやもやする。
「憂い顔など…しておりませんよ?」
小さく答えて、彼女は自らの頬に手を当てた。まるでほぐすように手で頬を掴んでは離している。
「それが憂い顔だと…」
なぜ分からない。
私は彼女の空いた頬に手を当て、こちらを向かせた。
「先日も申したが、君は私の妃であろう?私と逢っているときは笑顔で居るべきではないか」
笑顔が見たい。
単純にそう思った。
花のように笑う笑顔が。
ひくり。
彼女のノドの奥が震えたように見えて、私はギクリと身を縮めた。
しまった。
また知らず知らず、射るような鋭い気配を向けてしまっていた。
もう癖になっているので仕方ない。
辺境の地は、想像以上に殺伐としていて、一時の油断もままならない場所であった。
放たれる刺客や暗殺者といった虎視眈々と私の命を狙う悪鬼に負けないように、常に冷静沈着に、緊張感をもって生活していかなければならなかった。
その生活が今の私を形作ったのだ。
だから、狼陛下の異名も納得だった。
誰もが望む強い王。それが私へ与えられた国からの使命であったのかもしれないが、実に自分自身に都合が良かったのだ。
相手によって狼を出さぬよう気をつけてはいたが…彼女を前にするとどうしても仮面が剥がれて地が出てしまう。
私は、失態をカバーするつもりで、彼女の頭を優しく撫でてやった。
「な、泣くな。すまない」
「泣いてません!」
彼女は半ば叫ぶように言い放ち、宣言どおり泣くのを必死に堪えていた。
唇に力を入れて、懸命に堅く結んでいる。
その表情がこっけいで、いけないと思いつつ笑みが込み上がる。
「……っ」
「……?」
大きな丸い瞳が、私を不思議そうに見ている。
あぁ…しまった。笑っている状況ではないのに、つい。
本当に、つい見惚れてしまう。
目が離せない。
「夕鈴…」
咳払いと共に彼女をじっと見やる。
「はい」
「……」
そこで初めて顔同士の距離の近さを感じ、一歩身を引いた。
「…君は、私が怖いか?」
問いかけに、ふるふると頭を振る彼女。
全身を、小刻みに震わせて。
「無理するな。幼い頃の私は、今よりもう少し可愛げがあったが…気づいた頃には、君のような若い女性から怖がられていた」
いつしか怖がられることに慣れてしまった。
「怖いです。でも陛下は怖くありません」
「……素直に怖いと認めれば良いんだ」
私を怖がらないなんてありえない。
何を意地になっているのかは知らないが、全身から怖さが滲み出ている。
手をのけたら、今にも逃げ出しそうだ。
私はふぅっと肩を落として、彼女の涙をぬぐう。
大粒の涙を指先でそっとすくった。
「泣いてるくせに…」
「っ泣いてませんよっ」
「怖いくせに」
君も同じだ。
無理してる。
「怖くありませんっ。私は…知っていますから」
しつこいですよ、陛下!と彼女は続けた。
誰がどう見ても泣いてるし、怖がっている。しつこく頑ななのは君の方だ。
だけど必死で怖くないと胸を張る。
私を知っているから、怖くない…と。
「君が私を知っている…か…」
君の知る私を知りたいと感じた。
私は他人を怖がらせることしか出来ないから。
「……君はよく分からないな」
予測出来ないと言った方が正しいか。
「私も分かりませんよっ」
怒って訴える彼女。
逆ギレする様子にどっとため息を漏らす。
なぜ怒るのか。
「……」
「……」
ホント分からない。
彼女はあまりに私の知る妃像からかけ離れている。
妃とは、もっと落ち着いていて、かしこまっていて、いつも窮屈そうにはかなげで…。
そこまで考えて気分が悪くなった。
それは父や兄の妃であった。もちろん私の母を含めて。
「あの…」
「あぁ、すまない」
母を思い出すのもいつぶりか…。
後宮や妃の話題になると、胃の腑がねじれるような気分になるのは、今も昔も変わらないらしい。
「私にまだ用事であったな」
せっかく訪ねてくれたのだ。
私はこれ以上怒らないように、話題を元に戻した。
「もう済みましたよ。では、私はこれで」
むくれ顏で強引に話を終えて背中を向ける彼女。
「え?ま…待て」
まだ話は終わってない。
慌てて立ち上がり呼び止める。
「私は済んでいない。まだ居て欲しい」
「いやです」
「はぁ!?」
一体何を。
歩みを止めない彼女を、私がここで逃がすわけなかった。
肩を掴み、無理やり引き止める。
「!?」
強く引いたせいで後ろへ転げそうになる身体を支えて、後ろから抱き締めた。
「なっ…!なな、なにを」
彼女の動揺声を聞いて、同じように自分で自分に問うた。
本当に、私は何をやってるんだ。
「な、泣かれたままでは困る」
「泣いてません!って」
じたばたと暴れる彼女。
引くに引けずに、意に反して拘束を解けない。
「では…何を怒ってるんだ!?」
「怒ってません!」
それで怒っていない…のか?
絶対嘘だ。
私は暴れる彼女をさらに力を入れて制する。
「離してっ」
「……」
「離してってば、陛下!」
「…いやだ」
離すもんか。拒絶の言葉に腹立てた私は、もう意地になって余計力を込めた。
彼女の気分がうつったのかもしれない。なぜか頭に血が昇っていた。
「私は君の夫だろう!」
「でもあなたは覚えていないでしょう!?」
ぼろぼろ…彼女の涙が頬を伝って私の手の甲に当たる。小刻みに肩を震わせて身を縮める彼女。
その様子に一瞬動揺し力を緩めた隙に、彼女はするりと囲いから逃れてしまった。
「まっ…」
「来ないで!!」
「…っ」
伸ばした手は、力なく落ちた。
後に残ったのは彼女の残り香と、呆然とし脱力状態の私。
「……」
来るなと言われたのは、いつぶりだろう…しばらくそんな風にぼんやり考えていたが、はっと気付いた。
私は国王だろう。
しかも君は妃だ。
まぎれもない事実。
覚えてなくてもなんでも、追いかける権利はある。
私は勝手に納得して、逃げ去る彼女の背中を追いかけた。
「お妃様でしたら、中奥の方でお見かけいたしましたが…」
「そうか…」
今度は中奥だと⁉︎彼女の足の早さは馬並だな。
私はため息を漏らさぬようにそっと息をついて、来た道を戻るため回れ右した。
答えた侍女の姿が見えなくなったのを確認して、急いで駆ける。さっきから彼女の姿を探し求めて王宮内を駆け巡っていた。聞いた場所に着くと彼女の姿は忽然となく、また次の場所へと向かう。
その応酬を繰り返していた。
私は目的地に着くと目についた次官を呼び止め妃の居場所を聞く。次はどこへ行ったのか…と聞くと、次官はすっと目の前を指差した。
「お妃様でしたら、あちらに」
「え…」
灯籠の奥に人影がひとつ。
いたちごっこの終わりを見せる景色に目を細める。
次官が言うように、私の妃は中奥の四阿に居た。
ゆっくりと近づくと、まるで待ち構えていたかのように拝礼をとる姿が見えた。
「夕鈴…」
「……」
うつむいたまま返事をしない彼女。
私は追いかけっこで疲れた身体を四阿の椅子に預けた。
「足、早いな」
ははは…なんだか愉快になり、笑う。
私には王宮の記憶がないため地の利は彼女の方にあるが、それにしても早い。
そんな動きにくそうな格好でよくあれだけ早く走れるものだ。
しかもこんな暗い中。
彼女は闇の中でも、早く走れるらしい。
「まるで脱兎だ」
「よく言われます」
やっと上げた彼女の顔は、穏やかに落ち着いているように見えた。
時間を置いて冷静になったからか、彼女も私も。
「あなたによく言われます」
「そうか」
私は頷き彼女に手を伸ばした。
「話をしても良いか?」
「その前に…ごめんなさい」
「何を謝る?」
「逃げたこと。私、たいへんな失礼を…」
「楽しかったから構わない。きっとこうやって、よく追いかけっこをしていたんじゃないか?」
「……」
違ったか。何も答えない彼女の様子を伺うと、ほんのり笑っていた。
「笑った……」
「…え?」
「…あ、いや…」
思わず口に出してしまった。
「久しぶりに笑顔を見た気がする。出来れば笑って居て欲しい」
「……はい」
彼女はゆっくり頷くと、私の手を取った。
星空が明るく、すこし眩しい四阿にふたりっきり。
最初こそ緊張していたが、いつもこうしてふたりで居たような気がして、私の心は落ち着いていた。彼女も同様のようで、静かに瞬く星を見つめていた。
なんとなく昔話に花が咲き、気づくともう真夜中だ。
ずっと政務室に缶詰だったので、本当に気が晴れる。それに、私の知らない私の話を聞くだけで、その時だけ、私の中で記憶が戻っていた。
不思議だ。
まったく知らない彼女なのに…これほどに惹きつけてやまない彼女。
「陛下…お疲れですか?」
「いや、続けて。下町にお忍びだったか?」
どうやら黙り込んでしまっていたようだ。
私は慌てて答えた。
「そろそろ王宮に戻らなくてもよろしいですか?」
彼女は周囲を気にし、きょろきょろ見渡した。
さっき居た次官に人払いをさせたので近くに人は居ない…そう言うと、彼女は驚いた顔を浮かべた。
「君こそ平気か?起きているには、遅い時間かと思うが…」
「私は大丈夫です…」
「そうか」
「あの……ずっと陛下には、避けられていると思ってました」
「避けては居ない。ただ、機会が無かっただけだ」
必要性を感じなかったと言う方が正しいかもしれない。だか今は違う。
「今日のノルマはこなしたはずだから、もう王宮に戻らなくても大丈夫だ。こんな遅い刻まで仕事する気ないし。それより続きを聞かせて欲しい」
聞きたい。
いや、聞かなければならない。私自身のために。
私の希望に、彼女は素直に続きを話し出した。
「下町で、陛下は偽名を使い本当に楽しんでいらっしゃいました。露店や市場など、たくさん一緒に行きましたよ」
「ふうん、そんなに城下に詳しいとはね」
こっちへ来た後、いろいろ探索したようだ。
大人しくはしていられない性格だし、気になったら自身で行っては見聞を深めている。詳しいのも納得だ。
妃も共に連れ回すところに関しては、ますます私らしくないが。
「お忍びとは愉快だな。それにしても、君には不慣れな地。かなりたいへんだったんじゃないか?」
「いえ、私は実家が下町なので。陛下も何度か遊びに居らして……ですから、とっても楽しかっ……あっ」
ふたりして顔を見合わせる。
彼女は目を大きく見開いて私を見ていた。
「…実家が下町?」
そう聞こえたけど、まさかと流していたが…彼女の態度に質問してみたくなった。
「夕鈴?」
「いえ、あの……」
あきらかに動揺していたので、極力柔らかく尋ねた。
「ずっと気になっていたが、君はワケありの妃?」
「……」
彼女はまばたきを繰り返した後で、こくりと頷いた。
「もしかして…妃も形だけか?」
「すみません。ずっと言おうかと悩んでいました」
なるほど。
これですべて繋がった。
夫婦にしてはぎこちなく、どこか現実味がなかったんだ。
だが…彼女を思うと、胸が温まるような感覚になるのは、どこかで惹かれていたから…か。
「本当にごめんなさい」
「別に怒らない。私自身がワケありだから。それに、はっきりとは言わなかったが李順がそんな風に言っていた」
田舎から連れてきた遠縁の娘か、貴族の姫か何かかと思ったけれど、まさか下町の庶民とは。李順も思い切ったことをしたものだ。
「………陛下がワケありって…」
彼女は私の言葉が引っかかったようで、問いかけてきた。
「私の即位の経緯は聞いてる?」
「少し…」
「なら分かる?」
彼女は難しい表情を浮かべながら、しばらく逡巡した後、頷いた。
当時の状況が、私を王に取り立てたまでのことだ。
「君も不運だな」
私と同じ、巻き込まれた者同士。
「いいえ、あなたと逢えたので不運とは思いません」
彼女の笑顔が眩しい光と重なる。
「……」
こんなにすんなりと他人の言葉を受け入れることが出来るのは何故だろうか。
私と逢えたことが不運でないと言ってくれるのならば、きっとそうなのだろう。
子供の頃から、考えていた。
私の身分が、立場が、人の心を縛りはしないかと。
いつか、私が心から思う者が現れたとき、相手も私を思ってくれていても、その気持ちが嘘偽りないものだと、本当に思うことが出来るのだろうか。
幼い頃の情景が浮かぶ。
初めて自らの立場の重さを理解したとき。
知ったとき。
悲しくて、哀しくて。
怖くて仕方なかった。
呆然と立ち尽くす小さな背中を、支える誰かは居なかった。
もう何年振りだろうか…。
ずっと麻痺していたというのに、当時の気持ちが蘇るのは……君が原因か。
「……夕鈴」
「はい」
「もっと聞かせてほしい。君の中の私の話を」
もっと。
もっと。
この心の隙間を、埋めたいから。
そして願わくは。
君の心のその奥も。
知りたいと思った。
中編完了
長文、ここまでお疲れ様でした&お付き合いありがとうございました
つ、疲れた(^^;;なな、なんと二部作で終わらなかった。書き出したら止まらないですね。ふたりの心情を文字に起こす難しさを、改めて感じております。
今回は記憶を無くした陛下が覚えていないはずの夕鈴に惹かれていく姿を中心に書いております。
次回で最終回の予定です。終わるかな?いや、終わらせますよ!
後編は頑張って執筆しております。もうしばらくお待ちください(*^^*)
今回は陛下目線です。
前編の続きとなりますので、まだの方は前編からどうぞ。
ではどうぞ。
【More・・・】
泣いていた。
涙を見せず、肩を震わせて。
苦しいと言った。
笑顔で言っていた。
その横顔が、あまりにもまぶしく。
向けられた気持ちが、どこまでも澄んでいて。
心から笑う顔が見てみたい…。
そう思わずには、居られなかった。
忘却のかなた 中編
「あぁ…お妃さまですよ」
「良い天気なのでお散歩ですね」
長い廊下に差し掛かったところ、使者たちの言葉で、私は歩みを止めた。
ちょうど目前に王宮が誇る美しい庭が広がり、足を止めて鑑賞するポイントであった。ここで、一気に話が盛り上がる手はずであったが…。
政治の話を順調に進めていたかと思えば突然挫かれた話題に、私は顔をしかめた。
対する彼らはと言うと、私には絶対見せない朗らかな表情で、視線の先でころころと笑う私の妃を眺めていた。
「……」
また、こいつも…か。
国王陛下の目前で、他者に気を取られるなど使者にあるまじき行為だ。
それをさせてしまうほど惹かれるものが彼女にあるのかどうか…私にはよく分からない。
私は見慣れた光景にさして感想を述べず、決まり文句になっていた妃への褒め言葉で、幕を締めた。
「酷い表情を」
午後の政務を告げる鐘と共に、李順が口を開く。
酷い表情なのは分かっていたので、それがどうしたとばかりに一瞥を投げ、私はため息をついた。
政務室はさきほど人払いを済ませたばかりで、広い室内に人はまばらだ。隅の会議机で作業中の官吏たちに我々の会話は聞こえるはずもなく、私は遠慮なく声を荒げた。
「この顔は生まれつきだ」
私の投げかけに李順は負けじと続ける。
「……そのような顔では、使者の方々のお相手は難しいかと…」
「……そんなことは知ってる」
十二分に知っている。
だが、私の顔をしかめる出来事ばかりに、いい加減うんざりしていた。
「実に回りくどい」
「……」
苛立ちを隠せず荒々しく書類をめくる間、少し歳を取ったように見える優秀な側近の表情が変わることはなかった。
「実に回りくどいぞ」
私はもう一度声を上げた。
これが国政か、党首の仕事か。
少し前の私であればこう続けていたが、さすがに学習した。
続けたところで本質は変わらないことを、身を以て悟ったのだ。
「奴等はどうして、政務を進めない?」
イライラと尋ねた後、李順の答えを待たずに、自ら”駆け引き”だろう…と吐き捨てた。
「あーー回りくどい」
進まない交渉に、進まない取引。
肝心な場面では、話を変える手口。
政治の世界が此れ程手強いとは、記憶を無くす前の私は知っていたのだろうか。
身体の苦痛と共に目覚めると、知らない人間たちに囲まれていた。
さっきまでそばにいたはずの見慣れた人の姿はなく、見知った景色は跡形もなかった。
奇想天外な状況に言葉を失いつつも、とりあえず冷静に自身の怪我を確認した。
巻かれた白い包帯と痛む頭。
たいした傷ではないことに安堵しながら、いつ終わるとも知れぬ幻想のような世界を再度見渡した。
私を国王陛下と呼ぶ面々は、皆一様に同じ表情を浮かべて、李順以外は見分けがつきそうになかった。
これは夢かと意識を彷徨わせ、それでも一向に冷めることはなく…。
軋んだ身体をようやく起こすと、荘厳な王宮に似合わない小さな少女が、目の前で豪快な泣き顔をさらしていた。
「……っふ」
口元に手を当てて、私は笑う。
あの場面を思い出すたび、おかしくなる。
彼女は、別の意味で一際目立っていた。
あの顔もあの仕草も、今まで私が出逢った誰ひとりさえ、見せることはなかった。
だから思い出しては不可抗力で笑ってしまう。
極力笑い声を出さないように気をつけていたが、めざとい側近に見つかった。
「何か良い手立てが浮かびましたか?」
「いや…妃の泣き顔が浮かんだ」
「お妃様?彼女のこと、何か思い出しましたか?」
「……何も」
答えて嫌になる。
彼女に関しては、見事に何も思い出せない。
私の妃は、ごくごく普通の少女だ。
とりたてて美姫でもなく、たぐいまれな教養を身につけているわけでもなく。妃の割には優美さや奥ゆかしさを感じず、何が私を引きつけたのか皆目見当がつかない。
強いて言えば、今までに逢ったことのないタイプか。
唯一の妃というので、高家からの輿入れかと思いきや所在不明らしい。謎は増すばかりであるが、尋ねたところで李順が答えるわけはなかった。
『随分と私が彼女に執心していたため細かいことまで調べていない。どこからか私が連れて来た』
とのこと。
俄かには信じ難く、嘘っぽさを匂わせていたが、問題はそこではない。
聞けば、実際に寵愛はなはだしかったらしい。
昼も夜も片時も手放さなかったとか。後宮へも足繁く通っていたと聞いた。
狼陛下が唯一、笑顔を向ける相手。
それが狼陛下の花嫁。
私はため息と共に頭を抱えた。
近しい存在で彼女だけ思い出せない。記憶を無くす前の私が、これほど深く愛し慈しんでいたというのに。
不思議なことだ。彼女を前にし気は焦るが、記憶は伴わない。深く巡れば巡るほど、ちらちらと顔ばかりが目に浮かぶ。
悲しいと泣き、楽しいと笑い、嬉しいと喜ぶ。
ころころとめまぐるしく変わる表情を、いつまでも見ていたいと思う。
だが、時折見せる憂い顔に、心臓の奥がキュッと痛くなる。まるで何かの罪悪感のように…いつまでも。
「あーー」
私はついに書類を投げ出し、傍に立てかけてあった長剣を手に取り立ち上がる。
「ちょっと駆けてくる」
頭の整理をするには外が良い。そう考えての行動であったが……。
「…っっ」
おそらく子供でも感じるのではないかという分かりやすい殺気に、私は動きを止めた。
「そんな、遠慮なく殺気を向けるな」
苦笑いで言う。
「遠慮なく向けないとダメだと、ようやく思い出せましたので」
やれやれ…、どういう意味か。たかがサボりではないか。
確認した李順の顔はまさに鬼そのものであった。
身内で私に殺気を向ける者は、後にも先にも奴だけだ。その威力は確実に昔よりパワーアップしている。
「……」
ここでさすがに無視するのははばかれて、私は再度椅子に腰掛けた。
「休憩したいのだか?」
「休憩ならば十分になさっておいでですよ?」
私の言葉に被せるように李順は答えた。
「だから記憶を無くされたのでしょう?」
分かりやすい嫌味に、ため息を漏らす。
休憩と言い残し馬を駆けた結果、落馬し記憶を無くしたらしい。
その頃の状況を覚えてはいないが、この厳しい監視下、よく抜け出せたものだ。
そう言うと、陛下の得意技でしたよ…と淡々と答えられた。
どうやら、サボり癖は治っていないらしい。
「少し前まで辺境軍を率いて戦の連日であったんだぞ。急に机仕事と言われても…」
「言われても…何ですか?国王陛下」
「……」
「おっしゃってください、国王陛下」
「………いや、なんでも」
さっきまで、私のことをそんな風に呼んでいなかっただろうに。
その視線だけで人ひとりぐらいなら射殺せるんじゃないか…。何人かは被害に遭っていそうだ。
記憶が無いとはいえ国王である私に対し遠慮しないところは、昔から変わらない。
「まったく…お前は変わらないな」
私は外に出るのをすっかり諦め、投げ出してくしゃくしゃになった書類を整え、元通り上から目を通し始めた。
「陛下は随分と変わられましたね…怪我なされてから初めてお逢いしたとき、懐かしさに震えましたよ」
李順は一切表情を変えず、抑揚のない声音で答えた。
「…それは…どういう意味なんだ」
相変わらず掴めないなぁ。
辺境の地では、血なまぐさい戦場には一切顔を出さない部下であったので、こうしてずっと長く対面するのは久しぶりか。
「李順…お前はいつから私の側近になった?」
「正式には御即位と同時ですね」
「ふうん」
辺境時代から優秀な男で、私を王の息子として敬っていた数少ない人間。共に苦労を重ねた存在として王都に連れて来たのも納得だ。
だが、あの露某と碧水を置いて来たことは衝撃だ。戦に明け暮れていた辺境の地で、私が最も信用を寄せていたというのに…。
中央では武官より文官が重用される傾向であるとは知っていたが、この私が素直に定石を置いたことが未だに信じられない。
兄の失位と私の即位、はたまた反乱軍の鎮圧か。歯車が複雑にかみ合い、今の状況がある。
目覚めたばかりの頃は混乱で判断できなかったが、最近になりようやく分かってきた。
「昔からそんな神経質な感じだったか?」
もともと角がある男だったが、より鋭さが濃くなったと感じた。側近とはそれほど大変なものなの…か。
「昔からです。あなたの側近になり余計増しました。ありがとうございます」
「……ふ、そうか」
裏表ない言い草に、多少安心した。それなりに気の置けない関係を築いているらしい。
「そうだ。浩大はどうした?近くに居るのだろう?」
私はずっと気になっていたことを思い出し尋ねる。
「お分かりですか?」
「ちょくちょく気配を感じる。だが顔を出さない。奴は一体誰に付いてる?」
「陛下にお仕えしておりますが…ったく、どうしたことでしょう?もしや、あなた側の気配の変化を感じ、近付いて来ないのかもしれませんね」
「なるほど、隠密らしくなったなぁ」
私は感嘆の息を漏らし、今の実力が知りたい…と続けた。
ちょっと手合わせを…と本当は続けたかったが、李順の機嫌が悪くなりそうだったので止めた。
私が怪我で休んでいる間、溜まりに溜まった書類が目前に積み上がっていた。
側近を始め私の周囲を囲む人間は優秀で、大半は片付けてくれてはいたが、最終的な決裁者である私が目を通さないといけない案件が残り続けていた。
窮屈だな。
人も場所も、王という存在も。
いつからか…国王になるのは必然と思っていた。
兄の失政と傍若無人さが顕著さを増して来た頃からは、余計国政への携わりが色濃くイメージ出来た。反乱軍を力で制することにも疑問を抱かなかった。武勇を残せば、きっと国王に推し立たられることが安易に想像出来たのに、それが正しいとも間違いとも得られず、ただ必然と、自分の役割をこなす日々であった。
空虚な日々が実体を持ったところで、結局空虚さは変わらないのか…。
今のこの状況が、ある意味答えなのかもしれない。
「浮かない表情ですね、何をお考えでしょうか?」
「……何も。ただ…やはり国王になっても何も変わらないな、と思っただけだ」
「……」
「……何も変わらない。空っぽだ」
この広いばかりで何も持たない王宮。
ここには何もない。
「それは違います」
李順の即答に驚き視線を向けた。
「何が違う?」
「あなたは正しく国を導かれていますよ」
「正しさと実態は比例しない。空虚さは否めないよ」
私は自らの意見を曲げるともせず、書巻の文字に目線を移した。
「あなたは空っぽの国王ではないし、私は空っぽの国王の側近ではありません」
まだ続けるか。
珍しくしつこい彼に興味が出て、付き合ってみることにした。
「では私は何か?」
飾り物の王呼ばわりであろう。
どこに居ても何も変わらないはずだ。
「あなたは絶対の王で、私たちの希望です」
「そんな風に言うのはお前ぐらいだよ」
私たちという言葉に引っかかり、私は口に出した。
「そんなことはありません。それに、あなたのお妃様も空っぽの国王のお妃様ではありませんよ」
「………なぜ妃が?」
急に妃を話題に出し、お妃様という言葉だけ強調したように聞こえて、私は顔を上げた。
「あなたのお妃様をよく見れば分かるという意味です」
「……」
分からん。
だが悔しいので、これ以上は聞かずにいた。
私の選んだ妃をかってくれているにもかかわらず、まるで何も知らぬ私への当てつけのように思えた。
私の妃のことを私より知っている他人が居ることが、なんとなく気持ち悪いのはなぜだろうか。
自分に有益な人間以外、興味のなかったはずなのに。
私の肩書きだけを見て、そばに侍っている者ばかりだと知っているから。だから期待はすまい…と開き直った結果、人間関係を損得で考えるようになってしまった。
それが誤りとも正しいとも思わず、普通のこととして。
そんな私が、一体何を考えているのか。
まさか嫉妬ではあるまいし、なぜこれほど気分が悪いのか…。
今の自分の気持ちが自分に分からない。
早く記憶を取り戻せば、この連鎖から絶たれるのだろうか……。
「使者の件だが…」
「はい」
「妃に相手させようか。使者たちは何やら妃に心開いているようだし」
昼間の一件を思い出し口にする。最初の酒宴の席を任せたこともあり、妃への信用はあるようだ。
それに、彼女の妃ぶりを見てみたい気がする。
接する時間が多くなれば、自然と分かるようになるかもしれない。
「あなたの口から出るのは意外ですが、良案だと思います」
「…意外?」
「いいえ、ではそのように進めます」
李順は何も答えず、次の奏上を読み上げた。
次から次へと…息付く暇もない。
改めて国王の不自由さを感じながら、やがて捌けていく書類の山を描きながら、そっと息を吐いた。
王宮には、幼い頃のある時期だけ暮らしていたことがある。
その頃の王宮は、きらびやかな黄金作りの家具が並び、色とりどりの衣装を纏った姫たちが楽しそうに談笑し、庭園にはいつも鮮やかな花々が咲き誇っていた。
その中で私は薄汚れた着物を纏い、楽しげとはほど遠い不幸をしょいこんだ風貌で、誰にも声をかけられず、うろうろしていたように記憶している。
私を産んだ母は幸薄い女で、国王の寵愛を受け世継ぎをもうけたは良いが、その身分の低さに後宮でろくな扱いを受けてこなかったようだ。その子供である私も同様で、女たちの欲による被害をいつも避けて過ごしていかなければならなかった。
辺境の地に移り住んだ後は、やっとこの生活から解放されたと安堵したが、気候の悪く住み辛い場所からか、母は元々弱かった身体をさらに弱くしていった。対する私は幼子に似合わぬ達観ぶりで、持ち前のたくましさを十二分に発揮し、王弟としての権威を確立していったように思う。
国政にも国王の身分にも興味がなかったが、現状への嫌悪感はあった。だから兄王が失脚した後、素直に血筋を受け入れ即位したのだと思う。
すべて想像だ。
その頃の私の気持ちなど、記憶をなくした今、知る由もない。
私は窓から月明かりを覗いた。
空の景色だけは、どこに居ても変わらない。
辺境の地で見上げた星空も、今宵と同じように美しかった。
最近の過労生活のおかげで、星を見上げる間もなく眠りに落ちていたので、こうして眺めるのも久しぶりだ。
しばらく窓枠に腰掛け眺めていたが、誰かの気配で身を起こした。
「……」
カタン…扉の奥から侍女が顔を出す。
「お休み中のところ、申し訳ありません」
礼をとる姿にため息を漏らす。
「今日の執務は終わりだ」
私はうんざり答えて、侍女に背中を向けた。
どうせ宰相あたりが、書巻を抱えてやって来ているのだろう。
いつも深刻そうにしているため、事の優先度や重要度が掴めず困ってしまう。すべてが緊急案件かと思い込んでしまい、何度となく酷い目に遭っている。
「明日にせよ…」
手で払いのけて終わりにしようとした私であったが、次の言葉ではたと止まった。
「……え…?」
「はい、お妃様がお越しにございます」
「……妃が、きているのか?」
「はい」
「……」
「やはりお引き取り願いましょうか…」
何も答えない私を見かねて、侍女が回れ右をしたのに気づき、慌てて引き止めた。
「ま、待て」
「……」
妃が夫の元に来て何が悪い。
なんの不思議もない。
「通せ」
不審に見つめる侍女の視線を避け、私は短く答えた。
「夜分遅くに申し訳ありません」
「構わない」
私は多少の気まずさを感じながらも、彼女を招き入れた。先日は、不覚にも彼女を泣かせ、事もあろうによく分からない感情にかられ、抱き寄せてしまった。
夫だから別に不思議はない。不思議はないが私には夫である記憶がない。なので多少なりとも気まずさがある。
彼女も同様のようだ。ギクシャクと入室する様子が、あまりに分かりやすくて思わず笑みをこぼした。
彼女は寝る前の楽な衣に着替えて、髪も下ろしていた。
よく見ると可憐だな…などと考えたあとで、慌てて浮わついた考えを追い出した。
まったく、どうしたことか。
彼女を前にして調子が狂うのは何故だろうか。
私は頭を抱えながらも、とりあえずは彼女に席を勧めた。
「このような夜更けにどうした?」
「お休みのところすみません、あの、こちらを先に…」
彼女は袂から液体の入った瓶を取り出すと、おもむろに差し出した。
「?」
「老師に調合していただきました。記憶に効くとか…」
「ふうん」
とりあえず受け取る。
父王の時代より以前から長く後宮に勤める管理人らしいが、滲み出る胡散臭さのせいでいまいち信用出来ない。
先日も、後宮の在り方とやらを大仰に力説されたせいで、印象が芳しくない。
私の後宮嫌いを知っていてなお、進言をやめないあたりも気に入らない。
「老師と言えば…先日もなにかと妃について口うるさく言っていたな…」
私は世間話でもするみたいに、ため息とともに話し出す。彼女は随分とあの小さな老人に頼っているらしいが、そんなに信用するほどでもなさそうだ。注意する意味合いも込めて、私は話題を口に出した。
「妃…とは、私のことでしょうか?」
「いや、妃全般のことだ。正妃を迎えろとか…もっと増やせとか。後宮をないがしろにするのは良くないとうるさく言われた」
今居る妃をもっと大事に扱え…とも言われたが、その件は伏せた。
「……」
たったひとりの妃のことも思い出せずに何が正妃か。まったくもって理解不能だ。
「君が正妃ではない理由は知らないが…」
そこまで話して、はたと気付く。
「……?」
なんだその顔は。
目に見えて落ち込み項垂れる姿の彼女を、私は怪訝に見やる。
「夕鈴?」
「…え…?は、はい」
彼女は私の視線を一瞬受け止めたかと思えば、すぐにバツの悪そうに反らした。
一体何か。気になる態度に思わず無言になる。
「あっ…と、老師は陛下の心配をなさっているのですから…そんな邪険にしないでください」
苦笑いで答える様子に、小さな苛立ちを感じる。
何だ?
注意深く観察してみたがさっぱり分からないので、尋ねてみた。
「どうしてそんな表情をするんだ。私が何か気に触ることを言ったか?」
いつぞやのように彼女の機嫌を損ねたのではないかと不安になる。
「え、!?いいえ、とんでもない」
彼女は驚き否定した。
「では何故?なぜそんな憂い顔なんだ?」
先日の、苦しいような悲しいような表情と重なり、胸の奥がずんと重くなる。苦しいくせに無理に笑う彼女の顔が、未だに記憶から離れない。
そうさせているのは私だと思うと、余計もやもやする。
「憂い顔など…しておりませんよ?」
小さく答えて、彼女は自らの頬に手を当てた。まるでほぐすように手で頬を掴んでは離している。
「それが憂い顔だと…」
なぜ分からない。
私は彼女の空いた頬に手を当て、こちらを向かせた。
「先日も申したが、君は私の妃であろう?私と逢っているときは笑顔で居るべきではないか」
笑顔が見たい。
単純にそう思った。
花のように笑う笑顔が。
ひくり。
彼女のノドの奥が震えたように見えて、私はギクリと身を縮めた。
しまった。
また知らず知らず、射るような鋭い気配を向けてしまっていた。
もう癖になっているので仕方ない。
辺境の地は、想像以上に殺伐としていて、一時の油断もままならない場所であった。
放たれる刺客や暗殺者といった虎視眈々と私の命を狙う悪鬼に負けないように、常に冷静沈着に、緊張感をもって生活していかなければならなかった。
その生活が今の私を形作ったのだ。
だから、狼陛下の異名も納得だった。
誰もが望む強い王。それが私へ与えられた国からの使命であったのかもしれないが、実に自分自身に都合が良かったのだ。
相手によって狼を出さぬよう気をつけてはいたが…彼女を前にするとどうしても仮面が剥がれて地が出てしまう。
私は、失態をカバーするつもりで、彼女の頭を優しく撫でてやった。
「な、泣くな。すまない」
「泣いてません!」
彼女は半ば叫ぶように言い放ち、宣言どおり泣くのを必死に堪えていた。
唇に力を入れて、懸命に堅く結んでいる。
その表情がこっけいで、いけないと思いつつ笑みが込み上がる。
「……っ」
「……?」
大きな丸い瞳が、私を不思議そうに見ている。
あぁ…しまった。笑っている状況ではないのに、つい。
本当に、つい見惚れてしまう。
目が離せない。
「夕鈴…」
咳払いと共に彼女をじっと見やる。
「はい」
「……」
そこで初めて顔同士の距離の近さを感じ、一歩身を引いた。
「…君は、私が怖いか?」
問いかけに、ふるふると頭を振る彼女。
全身を、小刻みに震わせて。
「無理するな。幼い頃の私は、今よりもう少し可愛げがあったが…気づいた頃には、君のような若い女性から怖がられていた」
いつしか怖がられることに慣れてしまった。
「怖いです。でも陛下は怖くありません」
「……素直に怖いと認めれば良いんだ」
私を怖がらないなんてありえない。
何を意地になっているのかは知らないが、全身から怖さが滲み出ている。
手をのけたら、今にも逃げ出しそうだ。
私はふぅっと肩を落として、彼女の涙をぬぐう。
大粒の涙を指先でそっとすくった。
「泣いてるくせに…」
「っ泣いてませんよっ」
「怖いくせに」
君も同じだ。
無理してる。
「怖くありませんっ。私は…知っていますから」
しつこいですよ、陛下!と彼女は続けた。
誰がどう見ても泣いてるし、怖がっている。しつこく頑ななのは君の方だ。
だけど必死で怖くないと胸を張る。
私を知っているから、怖くない…と。
「君が私を知っている…か…」
君の知る私を知りたいと感じた。
私は他人を怖がらせることしか出来ないから。
「……君はよく分からないな」
予測出来ないと言った方が正しいか。
「私も分かりませんよっ」
怒って訴える彼女。
逆ギレする様子にどっとため息を漏らす。
なぜ怒るのか。
「……」
「……」
ホント分からない。
彼女はあまりに私の知る妃像からかけ離れている。
妃とは、もっと落ち着いていて、かしこまっていて、いつも窮屈そうにはかなげで…。
そこまで考えて気分が悪くなった。
それは父や兄の妃であった。もちろん私の母を含めて。
「あの…」
「あぁ、すまない」
母を思い出すのもいつぶりか…。
後宮や妃の話題になると、胃の腑がねじれるような気分になるのは、今も昔も変わらないらしい。
「私にまだ用事であったな」
せっかく訪ねてくれたのだ。
私はこれ以上怒らないように、話題を元に戻した。
「もう済みましたよ。では、私はこれで」
むくれ顏で強引に話を終えて背中を向ける彼女。
「え?ま…待て」
まだ話は終わってない。
慌てて立ち上がり呼び止める。
「私は済んでいない。まだ居て欲しい」
「いやです」
「はぁ!?」
一体何を。
歩みを止めない彼女を、私がここで逃がすわけなかった。
肩を掴み、無理やり引き止める。
「!?」
強く引いたせいで後ろへ転げそうになる身体を支えて、後ろから抱き締めた。
「なっ…!なな、なにを」
彼女の動揺声を聞いて、同じように自分で自分に問うた。
本当に、私は何をやってるんだ。
「な、泣かれたままでは困る」
「泣いてません!って」
じたばたと暴れる彼女。
引くに引けずに、意に反して拘束を解けない。
「では…何を怒ってるんだ!?」
「怒ってません!」
それで怒っていない…のか?
絶対嘘だ。
私は暴れる彼女をさらに力を入れて制する。
「離してっ」
「……」
「離してってば、陛下!」
「…いやだ」
離すもんか。拒絶の言葉に腹立てた私は、もう意地になって余計力を込めた。
彼女の気分がうつったのかもしれない。なぜか頭に血が昇っていた。
「私は君の夫だろう!」
「でもあなたは覚えていないでしょう!?」
ぼろぼろ…彼女の涙が頬を伝って私の手の甲に当たる。小刻みに肩を震わせて身を縮める彼女。
その様子に一瞬動揺し力を緩めた隙に、彼女はするりと囲いから逃れてしまった。
「まっ…」
「来ないで!!」
「…っ」
伸ばした手は、力なく落ちた。
後に残ったのは彼女の残り香と、呆然とし脱力状態の私。
「……」
来るなと言われたのは、いつぶりだろう…しばらくそんな風にぼんやり考えていたが、はっと気付いた。
私は国王だろう。
しかも君は妃だ。
まぎれもない事実。
覚えてなくてもなんでも、追いかける権利はある。
私は勝手に納得して、逃げ去る彼女の背中を追いかけた。
「お妃様でしたら、中奥の方でお見かけいたしましたが…」
「そうか…」
今度は中奥だと⁉︎彼女の足の早さは馬並だな。
私はため息を漏らさぬようにそっと息をついて、来た道を戻るため回れ右した。
答えた侍女の姿が見えなくなったのを確認して、急いで駆ける。さっきから彼女の姿を探し求めて王宮内を駆け巡っていた。聞いた場所に着くと彼女の姿は忽然となく、また次の場所へと向かう。
その応酬を繰り返していた。
私は目的地に着くと目についた次官を呼び止め妃の居場所を聞く。次はどこへ行ったのか…と聞くと、次官はすっと目の前を指差した。
「お妃様でしたら、あちらに」
「え…」
灯籠の奥に人影がひとつ。
いたちごっこの終わりを見せる景色に目を細める。
次官が言うように、私の妃は中奥の四阿に居た。
ゆっくりと近づくと、まるで待ち構えていたかのように拝礼をとる姿が見えた。
「夕鈴…」
「……」
うつむいたまま返事をしない彼女。
私は追いかけっこで疲れた身体を四阿の椅子に預けた。
「足、早いな」
ははは…なんだか愉快になり、笑う。
私には王宮の記憶がないため地の利は彼女の方にあるが、それにしても早い。
そんな動きにくそうな格好でよくあれだけ早く走れるものだ。
しかもこんな暗い中。
彼女は闇の中でも、早く走れるらしい。
「まるで脱兎だ」
「よく言われます」
やっと上げた彼女の顔は、穏やかに落ち着いているように見えた。
時間を置いて冷静になったからか、彼女も私も。
「あなたによく言われます」
「そうか」
私は頷き彼女に手を伸ばした。
「話をしても良いか?」
「その前に…ごめんなさい」
「何を謝る?」
「逃げたこと。私、たいへんな失礼を…」
「楽しかったから構わない。きっとこうやって、よく追いかけっこをしていたんじゃないか?」
「……」
違ったか。何も答えない彼女の様子を伺うと、ほんのり笑っていた。
「笑った……」
「…え?」
「…あ、いや…」
思わず口に出してしまった。
「久しぶりに笑顔を見た気がする。出来れば笑って居て欲しい」
「……はい」
彼女はゆっくり頷くと、私の手を取った。
星空が明るく、すこし眩しい四阿にふたりっきり。
最初こそ緊張していたが、いつもこうしてふたりで居たような気がして、私の心は落ち着いていた。彼女も同様のようで、静かに瞬く星を見つめていた。
なんとなく昔話に花が咲き、気づくともう真夜中だ。
ずっと政務室に缶詰だったので、本当に気が晴れる。それに、私の知らない私の話を聞くだけで、その時だけ、私の中で記憶が戻っていた。
不思議だ。
まったく知らない彼女なのに…これほどに惹きつけてやまない彼女。
「陛下…お疲れですか?」
「いや、続けて。下町にお忍びだったか?」
どうやら黙り込んでしまっていたようだ。
私は慌てて答えた。
「そろそろ王宮に戻らなくてもよろしいですか?」
彼女は周囲を気にし、きょろきょろ見渡した。
さっき居た次官に人払いをさせたので近くに人は居ない…そう言うと、彼女は驚いた顔を浮かべた。
「君こそ平気か?起きているには、遅い時間かと思うが…」
「私は大丈夫です…」
「そうか」
「あの……ずっと陛下には、避けられていると思ってました」
「避けては居ない。ただ、機会が無かっただけだ」
必要性を感じなかったと言う方が正しいかもしれない。だか今は違う。
「今日のノルマはこなしたはずだから、もう王宮に戻らなくても大丈夫だ。こんな遅い刻まで仕事する気ないし。それより続きを聞かせて欲しい」
聞きたい。
いや、聞かなければならない。私自身のために。
私の希望に、彼女は素直に続きを話し出した。
「下町で、陛下は偽名を使い本当に楽しんでいらっしゃいました。露店や市場など、たくさん一緒に行きましたよ」
「ふうん、そんなに城下に詳しいとはね」
こっちへ来た後、いろいろ探索したようだ。
大人しくはしていられない性格だし、気になったら自身で行っては見聞を深めている。詳しいのも納得だ。
妃も共に連れ回すところに関しては、ますます私らしくないが。
「お忍びとは愉快だな。それにしても、君には不慣れな地。かなりたいへんだったんじゃないか?」
「いえ、私は実家が下町なので。陛下も何度か遊びに居らして……ですから、とっても楽しかっ……あっ」
ふたりして顔を見合わせる。
彼女は目を大きく見開いて私を見ていた。
「…実家が下町?」
そう聞こえたけど、まさかと流していたが…彼女の態度に質問してみたくなった。
「夕鈴?」
「いえ、あの……」
あきらかに動揺していたので、極力柔らかく尋ねた。
「ずっと気になっていたが、君はワケありの妃?」
「……」
彼女はまばたきを繰り返した後で、こくりと頷いた。
「もしかして…妃も形だけか?」
「すみません。ずっと言おうかと悩んでいました」
なるほど。
これですべて繋がった。
夫婦にしてはぎこちなく、どこか現実味がなかったんだ。
だが…彼女を思うと、胸が温まるような感覚になるのは、どこかで惹かれていたから…か。
「本当にごめんなさい」
「別に怒らない。私自身がワケありだから。それに、はっきりとは言わなかったが李順がそんな風に言っていた」
田舎から連れてきた遠縁の娘か、貴族の姫か何かかと思ったけれど、まさか下町の庶民とは。李順も思い切ったことをしたものだ。
「………陛下がワケありって…」
彼女は私の言葉が引っかかったようで、問いかけてきた。
「私の即位の経緯は聞いてる?」
「少し…」
「なら分かる?」
彼女は難しい表情を浮かべながら、しばらく逡巡した後、頷いた。
当時の状況が、私を王に取り立てたまでのことだ。
「君も不運だな」
私と同じ、巻き込まれた者同士。
「いいえ、あなたと逢えたので不運とは思いません」
彼女の笑顔が眩しい光と重なる。
「……」
こんなにすんなりと他人の言葉を受け入れることが出来るのは何故だろうか。
私と逢えたことが不運でないと言ってくれるのならば、きっとそうなのだろう。
子供の頃から、考えていた。
私の身分が、立場が、人の心を縛りはしないかと。
いつか、私が心から思う者が現れたとき、相手も私を思ってくれていても、その気持ちが嘘偽りないものだと、本当に思うことが出来るのだろうか。
幼い頃の情景が浮かぶ。
初めて自らの立場の重さを理解したとき。
知ったとき。
悲しくて、哀しくて。
怖くて仕方なかった。
呆然と立ち尽くす小さな背中を、支える誰かは居なかった。
もう何年振りだろうか…。
ずっと麻痺していたというのに、当時の気持ちが蘇るのは……君が原因か。
「……夕鈴」
「はい」
「もっと聞かせてほしい。君の中の私の話を」
もっと。
もっと。
この心の隙間を、埋めたいから。
そして願わくは。
君の心のその奥も。
知りたいと思った。
中編完了

長文、ここまでお疲れ様でした&お付き合いありがとうございました

つ、疲れた(^^;;なな、なんと二部作で終わらなかった。書き出したら止まらないですね。ふたりの心情を文字に起こす難しさを、改めて感じております。
今回は記憶を無くした陛下が覚えていないはずの夕鈴に惹かれていく姿を中心に書いております。
次回で最終回の予定です。終わるかな?いや、終わらせますよ!
後編は頑張って執筆しております。もうしばらくお待ちください(*^^*)
ちび |
2015.10.18(日) 23:51 | URL | 【編集】
ちびさま、こんばんは(*^^*)
いつも閲覧ありがとうございます!
のめり込むほど読んでいただき嬉しいです。最終話も楽しみにしていてくださいね〜。
いつも閲覧ありがとうございます!
のめり込むほど読んでいただき嬉しいです。最終話も楽しみにしていてくださいね〜。
ミケ |
2015.10.19(月) 00:53 | URL | 【編集】
このコメントは管理人のみ閲覧できます
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2015.10.20(火) 20:06 | | 【編集】
先日は、パスワードの件ありがとうございました
成就後のラブラブも好物ですが、このカップルの、くっつく前のもどかしさが相変わらず好きです☆
読んでて胸が痛くなる…!
続きを楽しみにしています
陛下か悶々と苦悩するのがたまりません!笑
成就後のラブラブも好物ですが、このカップルの、くっつく前のもどかしさが相変わらず好きです☆
読んでて胸が痛くなる…!
続きを楽しみにしています
陛下か悶々と苦悩するのがたまりません!笑
きわ |
2015.11.04(水) 23:39 | URL | 【編集】
きわさま
コメントありがとうございます。
ミケも二人がくっつく前の甘くもどかしい展開が大好物です。
裏部屋も読んでいただき光栄です。またいつでもお待ちしております(*^^*)
コメントありがとうございます。
ミケも二人がくっつく前の甘くもどかしい展開が大好物です。
裏部屋も読んでいただき光栄です。またいつでもお待ちしております(*^^*)
ミケ |
2015.11.05(木) 08:50 | URL | 【編集】
ゆうりんと出会う前の孤高の狼陛下!哀しいくらいの冷たさに痺れます!
私もお互いを想うあまりにくっつけない、この時期も大好きです。
私もお互いを想うあまりにくっつけない、この時期も大好きです。
にゃむ |
2016.12.12(月) 22:36 | URL | 【編集】
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楽しみにしていました〜。のめり込んで読んでしまいました(^_^;)最終話も楽しみにしています。